ひとつの調べがあり、そのためになら私は捨ててもかまわない
ロッシーニの、モーツァルトの、ウェーバーのすべてでも。ジェラール・ド・ネルヴァル 「ファンテジー」より
岩波文庫 フランス名詩選 渋沢孝輔氏 訳 から引用
先日、KARASの勅使河原三郎さんと佐東利穂子さんのトークイベントに出かけました。
彼らのダンスをナマで拝見する機会は名古屋ではなかなか無いのですが、この夏に25年ぶりに名古屋公演が実現します。でも、私はレッスンがあって行けなくて、せめて トークだけでも!と思いまして。
そのなかで、いくつも印象に残るコトバがありました。
(メモをもとにしているので、三郎さんの言葉そのままではないかも。ご容赦ねがいマス。)「振付をつけるときは、ダンサーにダンスのカタチの振付をするのではなく、柔らかくとか、静けさ、ゆるやかさといった音の質感を伝えて それぞれの質感を踊ってもらうことから始める。 そのとき、カウントは取らずに自由に動いてもらう。」
「(頭ではなく)身体で考える。身体で感じる。身体のあり方を考える。
(表現する身体とは)名前もないような体である必要があり、技術を得たあとは その技術が邪魔になる。
技術は余分なもの。その余分なもの、自分を着飾るものが無くなって残ったものが、自分。」
「人は誰でも自分を守りたい生き物。強く見せたいし、上手く見せたい。上手だと思われたいもの。
そういうヨロイを着てたら、自分さえもそのうちにごまかしてしまうようになる。
【本当のこと】を言うためには、上手でありたい自分を捨てる。
弱くていいと思うところから、始めましょう。ダメだと思うところには、実はチャンスがあるのかも。」
「緊張を持続できる人が、プロ中のプロ。」
「ある1つのことを表現するには、相反するものについても説明する(意識する)感覚が必要。
静は動を孕み、死と生は表裏一体。我々は常に拮抗するものの中に存在している。
たとえば、前に動けるのは、後ろに蹴ることができるから...とか。」
「物理的アプローチが好きだ。
体は曲線でできている。 動くという行為は(体の関節や組織が)ねじれる動きでできる。
我々は常に回転運動をしている。誰もみなダンスをしているようなもの。」
ひらめくと、スイッチが入ったように夢中になって話し出す三郎さん。
ダンスからすると、とてもストイックな厳しい方かと思い込んでいましたが、
とても茶目っ気のあるオジサマでした。 自分の中にはたくさんの人格があって...と冗談めいて話しながらも、常にアンテナをはってる感じがありました。
名古屋での公演は8月です。 睡眠という新作。
チケットを買っている友人が本当にうらやましかったなぁ。
素晴らしいダンスって、観ているだけで、フワッと軽くになれる感覚があって好きです。